昭和52年03月30日 朝の御理解



 御理解 第58節
 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」

 確かに人の見た目と、神様の御覧になる目とは、確かに違うようです。「本当にあの人はまじめで実意な人で」と言う様な人でも、おかげの受けられない人がある。かというて、大変人からはあんまり、人からは好かれないというか、評判は良くない。それでもその神様が御覧になっていい所がある証拠に、本人はおかげを受けておる。いわゆる神様に好かれるものを持っておる。
 まぁとくに極端に、例えば「あんやつは泥棒のようなやつじゃ。」とか「乞食のような根性じゃ。」と例えば人が言う様な人であっても、神様の目から御覧になると、そうでもない場合もあるし、自分自身の事ですらも、自分の長所欠点というものは、なかなか本当に分かるもんじゃぁないです。「自分なここが良かとこ」と思うておっても、神様の目から御覧になると、それはおかげの受けられない心であったり「自分なこれが、本当に欠点だ。」と思うておってもそれが反対に、おかげを頂くまぁきっかけになるようなものを持っておったり、分からないです。
 だからもう本当に人間心とか、人間な見た目で人とを批評するとか、批判すると言った様な事は、本当におおそれたことだと思いますよね。同時にまたなら批判を受けてもです、今言う様に神様だけが、ご承知の世界に生き抜くんだから、人がなんと言うおうが、それにいちいち腹を立てるようなことでは、おかげにならん。そういう時に「しっかり信心の帯をせよ。」とこう仰る。
 それこそ神様が「この様にして丸い心を与えようとして下さるんだ。力を与えて下さろうとしておるんだ。」といわゆる神の心を分かっていくこと。自分の心が分からんけれども、神様の心が分かっていくということが素晴らしい。信心とはそうです。自分のことは分からない。けれども段々おかげを頂いて、神様の心が分かっていくから、普通なら腹を立てるような場合であっても、神様の心が分かっていくから、腹を立てんで済むしまた、そこでへこたれたりせんでも済むということになるのです。
 そこであの私は思うんですけれどもね、結局自分が信心を頂いて、どれだけ有難いというもを、共に頂いておるかということ。どれほど自分が有難うならせて頂いておるかということ。私は今日あるところのお願いをさせて頂いておりました。このごろからその方の方も順調にいっておるようですから、「少し調子に乗りすぎりよらせんか。」と私が注意したいと思うぐらいに、調子よういってる人があるんです。したらその人が、あのう黒田節を、あの「酒は飲め飲め」という、あの黒田節を踊ってるんです。
 そして小脇にこう槍を持ってね、それであのう杯をこう持ってきまっておるところを頂くんです。その槍がね重うして、こたえんごと大きな槍じゃん。その槍がね。して杯はね、こげん太とかことは太かばってん、浅い杯なんです。いうなら小さい杯。槍の方が「ありゃぁ重かろう。」ちいうごと、大きな槍をこう持っておる。けれども杯の方は浅い、もういくら大きかったちゃ、もうなんにも酒は、あれに入るまいと言う様な、その黒田節を踊って、こうきまっておるところを頂くんですね。
 槍を小脇に抱えてこう杯を持って、きまっておるところ。杯は小さくていうなら槍が大きいと釣り合いが取れませんよ。まぁ「槍一筋」と言った様な事を申しますが、そういうところもその人はあるんです。かというてやっぱりあの槍ということは、あの「やりすぎよる」ということだと、私は思うんです。私が心にかけた「ちょっと、調子に乗りすぎとらせんじゃろうか。」と私は思う。
 だからやっぱり物事というものは、ひとつの調子が、出てこなければいけませんし、調子に乗っていかなければでけませんけれども、そこんところに、自分が乗りすぎてはいないかどうか、ということを見極めていくということは、その杯の方と槍の方とが、こうバランスが取れておるかどうかということを見ていかにゃぁいけんと思うとります。自分の心の中に、有難いと思うておる。その心と自分が今おかげを受けておる状態というものを、こう、比較対照してみなければいけない。
 そして「中々仕事は調子よういきよるけれども、このごろ信心の方がお留守になっておるなぁ。有難いほうがどうもひとつもこう、生き生きとした喜びも湧かないなぁ。」と言う様な時には、もう必ずやはり過ぎとる時です。槍が重たいのならならこちらの杯も重たいぐらいで、なからなければいけん。槍は重たい杯のほうは軽いと言う様な事では、そのやり過ぎてからそれこそ、後悔をしなければならない様な事になるのです。
 ですからそのやり過ぎる位、どんどんやっても良いけれども、もう本当に「どうしてこげん有難かじゃぁろうか。」という心もね、一緒に育っていかねばねいけないということです。皆が御用ということを申します。御用というものにはね、必ず御用ですから、神様が御礼を言いなさるようなものがあるです。ご苦労さん。神様のご苦労さんが有難いという心なのです。
 だから「今日は一日もうそうにゃぁ御用頂いた。」とこう思うておってもです、もし有難いというものが伴わなかったら、それは御用じゃぁなくて私用です私の用です。又は1,2,3,4,5というならば、5からひとつかけとる足りん。何かがひとつかけておる時なんです。これはねこれは自分の家の、ならお百姓さんが畑に出て、仕事を一生懸命する。それも御用教会で一生懸命なら頂くのも、やっぱり御用なんです。
 けれどもいかに、うんなら神様の御用を直接しておるからというてもです、その御用の後に有難いものも、なんにもないならば、それは御用じゃぁないです。自分のいうならば我情やら、我欲やらいうならば、私用のようなもんです。本当に御用が出来た時には「今日も結構なお使い回しを頂きまして、有り難うございます。」と御礼を申し上げねばおられないような心が、そりゃぁ家でお百姓さん、百姓しよっても、そうなんです。それが御用なんです。
 ところがそれがなら、いうならば「こがしこすりゃぁいくらがとなる。」と言った様な、いうならば、私情というですか、我情というですか、その我情我欲のために、例えばうんなら、仕事なら仕事がなされたとするならばです、それは御用になっとらんから、有難いものがない。ですからね一日一日の自分の生き方というものがです、果たしていうなら合楽理念に基づいての一日であったか、どうか。「果たして今日一日、御用じゃったじゃろかと。御用になっとったじゃろうかと。」というそれは、答えに「今日もお使いまわしを頂いて、有難うございました。」と。
 心から御礼の言えれる、心が出てきた時には、今日は良か御用が出来た時、「あぁもう、きつかった。きつかった。」ばっかしかないごたる時には、もうそれは私用です。自分だけこんなに働いてバカらしかといったような感じです。人よりも一倍御用させて頂いていうならば、答えは神様に「ご苦労さん。」と仰るその「ご苦労さん」というのが、神様の場合は、有難いというものを、私共の心に贈って下さるです。信心ちいうのはね、そこには本当に助かるということは、どういうことなんだろう。
 「本当に助かる」ということは。というふうにですね、いっぺん本気で思うてみなきゃぁいけません。「自分の思いが叶うた。」。それも助かりでしょうけれども、そりゃぁ本当の助かりにはならんです。自分の思うようにならん時には、「助かったことじゃぁない。」ことになります。本当の助かりというのは、自分の心の中に、もうどんなに今日は、きつい、なら、仕事をさせて頂いても、「有難い」という心が出てくる、そういう心が助かりなんです。
 だから「本当に助かるということは、どういうことなんだろう。」とひとつ本気で思うてみて「その助かることの手立てが、もしあるなら。」という姿勢を持って、み教えを頂くと「はぁ助かりの場、助かるということは、こういうことだ。」と自分でも体験させてもらえる。そういう助かりが日々、積もり積もってゆく。その有難いが積もり積もってゆく。そこにいうならば信心の確立というか、合楽理念の確立ということが、銘々の心の中に出来てくるわけなんです。
 人が盗人じゃぁと言うても、乞食じゃと言うても、自分のしておることが、本当に御用につながることであるとするならばです、それが人からみたら、泥棒にみえるかもしれん、乞食のようなというふうにみえるかもしれないけれども、自分の心の中に「有難い」というものが感じれる、頂けるならば人が例え、泥棒と言うても、乞食じゃと言うてもです、腹の立つだんではないことになってくる。
 又はそれがなら少しゃあ腹が立ったり「分けも分かりもせんで、何を言うか。」と言う様な心が起こった時にはです、愈々信心の帯をしっかりと締め直させて頂いて「あっ、こういう受け方は、合楽理念の受け方ではない。本当ではない。」と悟らせてもろうて、本当な受け方が出来るように、おかげを頂かなければいけません。やりたい事と、有難いというものがね、バランスが取れて参りませんと、やり過ぎます。
 やり過ぎますとそこに、まぁいうならば、人から色々批判を受ける様な事にも、なりけねないわけなんです。どうでもひとつ有難いものと、いうなら槍と杯がバランスの取れた、ひとつ黒田節でありたい。同時に私共の日日の「今日も本当に神様に喜んで頂くような御用をさせて頂きたい。」という願いが、だから朝に成されなきゃぁいけませんですね。それを願い、思い続けな。なにひとつさせて頂く、鍬を持つ手にでも、いうならそろばんを持つ手にでも、筆を持たせて頂く手にもです。
 それこそ有難いがこぼれるような、私は持ち方をしなければならないと思う。それこそ、「鍬を持つ手に、しみじみと。」。天地の親神様のお心が分からせて頂いたら、感動が湧いてくる。それが「今日もどうぞ御用をさせてください。」と持つその鍬の手に天地の感動が伝わってくる。それこそ思わずこぼしひと雫と言う様な、有り難涙に暮れながら、御用ができるようなおかげを頂いたら、本当に有難いと思う、これは確かにそうですよ。私共信者時代に、朝参りさせてもらう。
 もう寒中に今のようにストーブなんかありませんからね、まだ火鉢の火も入っていません。御祈念前に参りますと、あのうお広前の廊下の下で、はわき出しといてから、ずっと雑巾がけをするんです。そりゃぁもう本当歩いて参ります時などは、足袋を履きませんから、もうひびあかぎれで、あの下駄が勿体島の土井のにきまでは痛とうしてから、踏みつけられんごとある。けれども勿体島の土井のへんまで行くとですね、今度はもうひびでん、あかぎれでん踏み広げ取るとですからね。
 血は流れとるけれども痛くない。それでもう行ってからすぐに足、ジャブジャブその水でその洗うといて、それからお広前の掃除にかかる。一生懸命こうやってもうそれこそ、「金光様、金光様」であの雑巾がけをしよると、本当にねもうもう熱いような涙が、雑巾をかけてをる手にボタボタ落ちよったです。本当です普通から言うたら、おかしな話ですよね。まぁ人よりも三十分もいうなら早く行って、お広前を開けられる前に、お掃除をして、冷たい水で一生懸命、それから足から血がドロドロ血が流れよる。
 ヒビやらアカギレで踏んで行きますから、もう洗うといそれから雑巾がけをさせてもらう。そこに本当に熱いような涙が手にボタボタ落ちると言う事は、どう言う事だろう。いかに神様がね「ご苦労さん」、言って下さっておるかと言う事がわかるじゃぁないですか。なぜかと言うと御用だからなんです。本当の御用が出来たから、有難涙がこぼれよったんです。鍬を持つ手にそれこそ、有り難涙がこぼれると言う事と同んなじなんです。だからね「本当に人間が助かると言う事は、どう言う事なのか。」と。
 まぁギリギリなら、天地の心が分からなきゃぁいかん。天地日月の心にならなければいけないんだと。うんなら天地日月の心が分かってくる。分かってきたらその心に添うた自分の動きというものがでけてくる。いうならば鍬を持つ手にも、御用の精神がいっぱいこもっておる。そろばんを持つ手にでも、筆を持つ手にでも理屈は同じなんです。私がここに座らせて頂くのも同じなんです。「そりゃぁここに座っときゃぁ、いくらがとするけん。」と言う様にね。
 いうねらばね生活のために、もし私がここに座るとするならば、それはんならどんなに御用が出来けたようであっても、それは御用ではないですから、有難いものは与えなさらんです。それこそ神様のお心が、いうならば地上になっていく。神の願いが地上に成る。いうならば人の難人が助かるということ。神様の心を心として御用が出来る時、しかもそれが、本気で御用が出来た時、それこそここに根が生えたように、立とうごとないごと有難うなっていくです。
 御用だから所が中々、それが散漫になりますよね。だから結局例えば朝に夕にです「今日も本当の御用がさせて頂きたい。」という願いを持って、そしてその願いながら一日の御用をさせてもろうて、始めて「今日も結構な御用に使うて頂いて有難い。」その御用の頂きざまというものがです、人がみたらそれが泥棒のように見えたり、乞食のように見えたり、例えばするかも分からない。けれどもね心の中に「有難い」というものが頂けておる。ですから例え人がなんと言うてもね。
 おかげでいうならば信心の帯をしっかりしておりますから、腹も立たない有難いと言う事になってくる。もう人間の見た目と、神様から御覧になる目というのは、もう本当に違う、びっくりするほど違うんです。「あの人は良い人。」と私共は思うておるけれども、神様は「まああの氏子は悪い奴じゃ」と思うておられるかも分からんのです。私共が「もうろくな奴じゃなか。」と思いよってもです、神様の目から御覧になりゃぁ、神様の心に叶うた人かも分からんのです。確かにそうです。
 是はもうお取次ぎをさせて頂いていつも実感します。「いやこりゃぁ人間心と神心ちいうのは、こんなにも違うもんだろうか。」と思うぐらいです。だから自分自身でも分からんです。自分の是が良かとここれが悪かとこと分からん。そこでそれを本当なものか、本当のものでないかと言う事を確かめていく、今日はそういう手立ての様なものを今日は聞いて頂いたわけです。大きな槍を持っておるけれども、杯は小さくはないか。
 御用を頂いた一日「今日も結構な御用を頂いて有難い。」という心が湧いてくるかどうか。「今日はもうほんな働き損じゃった今日はきつかったきつかった。」というごたる事では、折角一日一生懸命の、勤労とも言いますかねを、致しましてもそれが、御用になっておらんでは、私用になって折る様な事ではね、信心生活と言う事は言えません。ましてや教会の御用でもさせてもらう時には、もう本気であの、御用させて頂く事の喜びを感じれれる位な、心の吟味と申しましょうかね。自分の心を見当させて貰う。
 そしてその心の良い調子を持って御用させて頂くと言う事になる時に、神様が御礼を言いなさると同じもの。それは私共の心の中に、しみじみ喜びが湧いて来る。神様が御礼を言いよんなさるのじゃ。そういう御用をさせて頂かなきゃぁ。そこにはねもう人の口には戸は立てられん。それこそどんなに自分の顔に関わる様な事を言われてもです、不思議に腹も立たないし、自分の心をそのために乱す様な事もない。
 ところが実際問題としては、腹もちょっぴり立ったりね、もう信心の無い者が何事言いよるかというような感じがする時もあるけども、そういう時にはそういう心を抑えて、そしてこりゃぁ、信心の帯のほうをしっかり、締め直させてもろうて、いうならば一番手っ取り早いのは、合楽理念を紐解くが一番良い「こういう時、合楽理念は、どう教えておるか。」ということを分からせてもろうて、理念に基づいた生き方をさせて頂くということですよ、ね。
   どうぞ。